川柳は自他を笑う詩である

 

ふざけた可笑しさではない

 

 「川柳とは笑いの文芸である」とか「川柳には風刺がなければならない」などとよくいわれますが、この言葉が必ずしも正確に理解されているとはいえないようです。たとえば江戸川柳を、現代の平均化された目から見れば誰でもが笑えますが、笑う立場と、笑われる立場がはっきりしていた当時にあっては、すべての人に共通の笑いではなかったし、一見「風刺」と見えるものも、自分より下に視線を向けたいわばカラカイの性格が強く、これを「うがち」と呼んでいました。
 笑いも風刺も、「自分だけは別」という視点では本当の共感は得られません。人間の弱点を笑うことは、同じ人間である自分をも笑うことです。社会を風刺するということは、その中に住む自分をも含めて風刺することです。そこに、ホロ苦さが生まれます。自己を戯画化することによって、人間全体の弱点や社会のさまざまな矛盾を戯画化してみせるのが川柳です。時事を対象とする時も、不祥事やその当事者を一方的にあげつらい、罵ったりするだけでは、風刺とはいえず、ただの「小言幸兵衛」にすぎません。