解 説:読売新聞記者。法律新聞編集者。南画家・田能村竹田の曽孫。
明治37年、《読売新聞》の狂句欄を新川柳と改め、翌38年5月、
投句家による読売川柳研究会を設立。また、新狂歌へなぶりの
創始者でもあり、39年11月には両文芸を合わせた機関誌「川柳
とへなぶり」(2号まで)を発行、翌40年1月「滑稽文学」(のち「川
柳とへなぶり」)を刊行して、久良岐社、柳樽寺川柳会に対抗する
明治新川柳の三派鼎立時代をつくる。
作句、選句とも写生を重んじ、淡白で上品な句ぶりは、山の手風
(久良岐)と評された。
初期の読売新聞投句者は而笑子、門外漢、樽拾、柳影子、出鱈
目、弥二郎、笑倒子、素骨、伝兵衛、無一堂、茶坪、いしば、紫絃、
望洋子、去風などで、明治40年2月には新聞選者をはじめ後事を
而笑子に託して退いたが、現在にいたる読売系川柳人脈の基を
築いた新川柳中興の指導者であった。
主な門下:門外漢、樽拾、柳影子、出鱈目、素骨、笑倒子、望洋子、
紫弦、去風、天涯子、葉舟、亭々子、半風子、蔦雄、五葉、
紫痴郎、荷十… など
主著作:『新川柳抄』(明38・12)読売新聞日就社
『へなぶり』 (明38・6)読売新聞日就社
『東声帆声』(明39・10)読売新聞日就社
代表句:ほろ酔の箸絹ごしをもてあまし (『新川柳抄』)
母親の笑顔で見舞安堵する (同)
句 碑::
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