四世川柳、五世川柳の時代を経て、言葉あそびの閑文字ともいうべき狂句は、以後の江戸期(この間、四世の俳風狂句は、五世川柳により柳風狂句と改称されます)を通して継続されますが、文芸的な価値とは、うらはらに、他ジャンルの知名な人々がこれに加わっており、この辺にも四世の政治性と社交的手腕が見られます。
柳亭種彦(木卯)、葛飾北斎(卍)、船遊亭扇橋(音曲噺の祖。都々一坊扇歌の師)、都々一坊扇歌、十二代市村羽左衛門(株木)、七代市川団十郎(三升)、十返合一九、二代南仙笑楚満人(のち為永春水)、桜川善孝、さらに狂歌の双璧・六樹園、狂歌堂、肥前平戸六万三千石の領主・松浦静山(柳水)らが、作者として、評者として、あるいは柳多留に序文を寄せるなど、一時期の狂句に黄金時代をもたらしました。
柳多留は、天保十一年に百六十七篇で終刊となりますが、翌十二年には五代川柳の手で『新編柳樽』が編まれ、嘉永二年までに五十五篇が刊行されます。
安政五年には、五代川柳の子・ごまめ(1814−1882)が六世を嗣ぎ、時代は明治へと移りますが、この頃には全国に大小の作者グループが生まれており、それを統合して柳風会を組織、講和的な地歩を固めたのは、六世川柳でした。その折、柳風会の憲章となったのが、「句案十体」と共に五世川柳が明文化した「柳風式法」で、川柳宗家によって允可される判者や地方判者を精神的に拘束する、新時代とはうらはらな詰屈なものでした。
本来、自由であるべき文芸に、さまざまなタブーを設けて、自縄自縛の状態にはあっても、幕末以来二千人といわれる作者を擁した柳風会では、ひとたび大会を催せば、一万−二万の寄句が集まるという勢力を依然維持し、狂句といえば柳風会、あるいは宗家の川柳を以て狂句の代名詞とする言いかたも一般化していました。
この柳風狂句対抗勢力として、新たに登場するのが”団珍狂句″です。
団団珍聞は明治十年三月、異色のジャーナリスト野村文夫によって創刊されたユニークな週刊誌で、戯画・戯文による滑稽・諷刺を眼目としましたが、投書欄である狂句(はじめは主筆・梅亭金鵞のち弟子の鶯亭金升選)もまた、自由で歯に衣を着せない時事諷刺が好評を博しました。
虫でさえはどうもやかましい (は薩摩出身者)
洋学者みゝずを餌に官を釣り (みみずは外国語の書体)
柳橋鯰が釣れて繁昌し (鯰はヒゲのこと、新政府の高官)
のような句は、「政事に係りたる儀は何事によらず句作・撰みなど致すましき事」(「柳風式法」の第一条)というタガをはめられていた既成の柳風狂句には見られない時代感覚で、これが「団珍調」と呼ばれ、新しいファンを獲得していきました。狂句は、以後、新旧二派の対立時代に入り、明治二十年代には全盛期を迎えます。これが、明治狂句の時代で、三十年代の後半まで続きます。
|