現在「川柳」という短詩文芸の形式のひとつになっているものは、初代柄井川柳の点(選)になる前句附をその起源とするもので、前句附を知ることは「川柳」のアイデンティティーを理解する上で重要な問題である。
本来、前句附は、俳諧の連歌の付合修練を目的としていたもので、宗匠と直弟子の間での付け合いであったものが、万治年間(1660年前後)に「六句附」(1句の前句に四季それぞれの4句と雑句2句をつける形式)から取次(仲介者)を介して興行的に行われるようになった。
附句の高点句を集めた『咲やこの花』(元禄 )の出版は、さらに組織的な興行化への引き金になったという。興行としての前句附は、景物(賞品)の品質を高め、射幸としての要素も高まっていった。
初代川柳が立机した宝暦時代は、まさに前句附が最盛期を迎えようとする時代であったといえる。
川柳評の前句附では、1年分の題が各開キ毎に5題づつ与えられ、題は、前句4題と冠題(上五)ひとつが組(募集ビラ参照)になっている。
作者は、この前句または冠題に附句を作り、1句につき銭一六文を点料(投句料)を添えて取次に提出する。取次では、受け取りの符丁を作者に渡した。
取次は、点料から手数料を取り、集まった句と点料を選者である川柳の元へ届ける。川柳評の場合、この取次の総元締めをしていたのが、龍宝寺門前にある「集山」という会所であったようである。この頃の取次の分布はリンクの通り。
五の日の10日毎に選をされ入選した句(勝ち句という)は、「暦摺り」と俗称される入選句一覧ともいえる刷り物となり、取次から投句者へ発表されるとともに、勝句の作者は、投句した取次に赴いて、賞品と符丁を交換することになる(下の写真参照)。
景物(賞品)は、上表の通りで、高番句で入選すると、木綿一反が貰えることになる。一六文の投資で約33倍のリターンとなるわけであるが、現代風に計算すれば、400円ほどの投句料でうまくすると13100円を得る事ができる計算となる。
賞品は、木綿などの現物でも、現金でも好きなほうを手にできたようである。
また、選外佳作のような「外フシ」というものがあり、投句料の二倍が帰ってきた。宝くじの末等のようなもので、高位の入選ができなかった作者にさらなる投句意欲を失わないよう配慮されていたといえる。
これらの入選率は、川柳の点業中を通じて3%弱で、高位に入選する事は、かなり難しかったといえる。しかし、同業の前句附点者よりは、わずかに甘い入選率であったこともあり、人気があったと思われる。
初代柄井川柳は、立机以来亡くなるまでの33年間に約260万句の句を撰した。これを単純平均すると、総計で約400回の開キがあったので10日間に平均7000句を撰したことになる。
最も多い開きでは、三万句を10日間で見なくてはならないこともあり、さすがにこの時は発表が遅れたようである。一万句を越える開きは70回以上。名実ともに「万句合」を興行し、第一人者としての地位を不動のものにした。
しかし、宝暦7年8月25日の第一回の募集では、寄り句がわずかに207句。勝句が13という滑り出しであったことを思うと、川柳評の魅力と実力が他に秀でていた事が今更ながらに忍ばれる。 |