明治の川柳復興

  

  正岡子規によって革新が唱えられた俳句が、江戸以来の宗匠俳句から脱して近代化の基礎を築き、また新しいロマンを求めた明星派などの短歌が新たな視野をひらいたように、川柳もまた明治の後半期に、新しい時代を迎えました。
 十八世紀中期に、柄井川柳(1718〜1790)によって独立形式の十七音文芸として定着した単句(この時代はいまだ「川柳」の名称では呼んでいません)が、時代が下るにしたがって、内容的に低落化、加えて宗家制度などという悪弊が続いて、文芸的には見るべきものを持たない言葉遊びに堕していました。世態・人情の機微を穿って高い評価を受けた川柳風が、なぜそのように堕落していったかについては、ここでは触れることはしませんが、明治にいたって気がついた時には、眼前にあるのは「狂句」と称する遊戯三昧の閑文字であったということです。
 約百年に及ぶこうした閑文字を否定し、新しい時代に則した文芸としての性格に目覚めたのが、明治三十年代の中葉で、川柳はここから再出発したわけですが、これを歴史的には「明治の中興」と名づけ、以後を「新川柳」の時代と呼びますが、文芸名としての「川柳」が固定したのも、この時期からです。 もちろん、現在おこなわれている川柳は、この「新川柳」を受け継ぐもので、今ではとくに「新」をつけずに、ただ「川柳」と呼んでいます。
 明治30年代後半に興り、現在につながるいわゆる「新川柳」は、当時の新聞や雑誌が設けた〈川柳欄〉を出発点としています。
 新聞〈日本〉、〈電報新聞〉、〈日出国
(やまと)新聞〉、〈読売新聞〉、〈東京日日新聞〉、〈中央新聞〉、〈大阪新報〉〈大阪日報〉などの新聞、〈文芸倶楽部〉〈文庫〉などの雑誌が、明治35年から37、8年にかけて川柳の募集欄を開設、そこに句を寄せる新しい作家群と、その選者であった指導者を中心に新しい川柳への動きが展開されていったものです。
 この各新聞や雑誌に割拠した作家集団を核にして、それぞれのグループが結成され、やがで吟社の設立、機関誌の発行という分派が成立して、それを包括した初期の「川柳界」が形成されていったというのが、近代川柳の濫觴です。

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