明治・大正期 |
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江戸後期の19世紀初頭から、初代川柳評以来のうがちの目とリアリズムが崩れて、言語の技巧だけをもてあそぶ傾向が強まり、「狂句」の名で呼ばれるようになりましたが、それからほぼ100年を経た20世紀初 めに、この無内容な「ことば遊び」から脱して、近代的な文芸精神に目覚めたのが明治の新川柳で、初めは新聞・雑誌を拠点に、やがて全国に結社、機関誌が生まれ、大正期に引き継がれます。大正期には、優れた作家があいついで登場、後半期には、既成川柳に飽き足らぬ改革派による「新興川柳」運動も展開され、川柳界は戦国時代の様相を呈します。
これは、百鬼夜行の「永田町」ではなく、当時の華族女学校。下校時には良家の令嬢ばかり約六百人がドッと街にあふれる、その華やかさを詠んだ。
日露戦争中に流行した戦争劇。「芝居」では死なないということは、 「芝居以外」の現実の戦場では、多くの血が流されていることを暗示。
古川柳に「泣き泣きもよい方を取る形見分け」という句があるが、この「金歯」は、より具体的に、よりナマナマしく、人間をムキ出しに。
東京市内電車のストライキ(明治44年)で、大晦日から正月にかけて 市民の足が奪われ、着飾った群れが軌道の上をゾロゾロという時事句。
幸田露伴らとともに「文学博士」の学位を贈られた夏目漱石が、受け 取りを拒否したのを、有名小説の題名をもじって拍手を送った諧謔句。
「柳原」は神田川沿い南岸の土手で、古着の露店が並んでいた。「涙」 も「酒」も、古着にしみついた人間の喜怒哀楽、浮世ドラマの縮図だ。
同じ動詞の活用形を使い分けて、金というものの種々相から、それと 表裏をなす世の中の種々相をまで描こうとする、気の利いた一句構成。
出来の悪い子を親の口から嫁にとは言えないし、賢い子は賢い子で他 人の手に渡したくないというエゴがはたらく―親心とはそんなもの。
故障をしたついでに質入れした金時計が、請け出したら動いていた。 質屋も金時計とあって、流れたときの利を考えてのこと。思わぬ余恵。
「上を向いて歩こう」と歌って空の事故で死んだ歌手があったが、これ は、どこを見て歩こうが所詮は墓場への行進であるという虚無的な句。
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