柄井家の系譜については、9世川柳の「柳風狂句栞」(明治30)に詳しく、これが補足、踏襲されて通説化している。
その通説を以下にみてみよう。
柄井家は、寛永10年頃、後西天皇の第五子・一品入道天真法親王の東叡山寛永寺本坊輪王寺入室に際し、柄井将曹(初代川柳の曾祖父・江戸柄井氏の祖)は、その御用掛として随従した。
将曹の子、図書(ずしょ)は、公弁准三宮に仕え、正徳5年、寛永寺末・浅草新堀端天台宗龍宝寺の寺侍となり、同所に住まいを移した。享保7年、門前町が寺社奉行の管轄から町奉行の支配に移されると、乞われて門前町の名主になった。
図書が亡くなると、その子八右衛門が2代目の名主を継いだ。
宝暦5年、八右衛門が名主職を隠退、宗円を名乗ると、その子正通(まさみち)が八右衛門を襲名、龍宝寺門前の3代目名主となる。初代川柳その人である。
八右衛門こと初代川柳の長男は、弥惣右衛門幸孝で宝暦9年生れ。父の死後、八右衛門を名乗り、文化13年に立机、二代川柳を嗣号した。俳号は若菜。文政元年10月17日、60歳で没。
初代川柳の三男(五男ともいわれる)八蔵は、安政5年の生れで、二代川柳の死後、文政二年、三代川柳を継いだが、社中の不評をかい文政7年に隠退。文政10年6月2日没した。
以上が、通説に見る柄井氏の系譜である。
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