<活動>昭和52(1977)年8月嗣号―平成29年3月1日没
<号> 鮮紅亭/苦川/未完子(昭29.9から)
<本名>脇屋
保。
大正15(1926)年9月21日、東京生れ。
昭和27年頃より苦川の名で貧乏川柳会に所属。鮮紅亭苦川の号は、戦中に潜水艦勤務で苦労したことによるという。特に昭和19年12月の台湾への航行は敵潜水艦に狙われた。
昭和28年8月、根岸川柳の門を叩き、翌年8月、東京川柳会の同人となる。
翌年9月より未完子を名乗る。
昭和52年2月より東京川柳会代表となる。
昭和52年8月、十四世川柳の遺志により十五世を嗣号。歴代川柳の譲り物を預けられる。
昭和54(1979)年6月3日正式嗣号。
平成8年1月、東京川柳会主宰を後身の青田煙媚に譲り、川柳を見直す作業に入る。同9月、『松浦静山と川柳』を近代文芸社から刊行。
平成11年、『お江戸内輪話』を葉文館出版から刊行。
平成15年4月12日、九世川柳100回忌追善句会。同8月より ほろほろ忌句会へ継続指導。
平成17年5月、川柳学会発足により同会長に就任。機関誌「川柳学」に「呉陵軒考」はじめ江戸川柳の解説等を連載。
平成19年、川柳250年行事の実行委員会顧問を務める。同年より読売日本テレビ文化センター等で川柳講座開催。
平成27年、柳多留250年実行委員会顧問として指導に当たる。
平成28年、尾藤三柳師を偲ぶ川柳莚発起人として参画。
平成29年1月より肺炎で入院。3月31日逝去。7月26日、川柳学会を中心に川柳師の近くあった者たちの偲ぶ会。"
全日本川柳協会幹事、日本川柳ペンクラブ常任理事、川柳学会会長を歴任。よみうり日本テレビ文化センター講師。
東京衣装鰍ノ勤める関係で江戸文化・風俗に対する造詣が深く江戸趣味を愛好。
代表句 直筆短冊
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