解 説:読売新聞・新川柳2代選者。
読売川柳研究会、《滑稽文学》二代主宰。。
横浜電信局技師。
明治35年ごろ、柳多留に興味を持って、当時封建的であった俳壇に
反発して川柳に転向した。
明治37年、投書家を経て読売新聞入社。
明治40年3月から朴念人のあとを継いで川柳選者となる。同派川柳 の全国普及に尽瘁、多くの支部を設ける。
読売川柳研究会は、久良岐社、柳樽寺と並んで明治川柳界を3分。
句風は写生を主とし平明を好んで「読売派」と呼ばれた。
《媛柳》ほか数誌を主宰。門系は雅号の末尾に「子」を用いた。
松山市は明治40年の《海南新聞》投句者による海南川柳研究会以
来の一門で、遺句集『川柳一糸集』も同地から刊行された。
主な門下:門外漢、樽拾、柳影子、出鱈目、素骨、笑倒子、望洋子、
紫弦、去風、天涯子、葉舟、亭々子、半風子、蔦雄、五葉、
紫痴郎、荷十… など
主著作:『末摘花』明治43年、滑稽文学社
遺句集『川柳一糸集』前田伍健編
代表句:初夢の笑ひ屏風へたゝみこみ (明治38『新川柳抄』)
天にまします神様はをかしがり (同)
手ぶくろを口にくはへて銭を出し(同)
春の灯を前に髪結ふ女あり (明治43『新川柳六千句』)
句 碑::
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