作句 ポイント

 ここでは、初心者の実作を例に、とくに陥りやすい基本的なポイントについて、記しておきます。
 読むのが面倒な方は、RyuTubeをご覧ください。

@重語を避ける
 

 たった十七音の句体の中で、同じようなことを繰り返したり、ナゾったりするのは、それだけで内容の密度を薄め、短詩型としての凝縮性を欠く結果になります。限りのある音数ですから、たとえ一音でも無駄にしたくないものです。                   
  日本米何処へ行ったかかくれんぼ     
   
 この作品は、中七と下五が重複のかたちになっています。つまり「かくれんぼ」といえば、「何処へ行ったか」はいわずもがなで、その代わりに別のことを言う余裕が生まれてきます。  
               
  日本米瑞穂の国でかくれんぼ

 
A作者の感想は句の背後に
 

 ある現象をとらえたら、そのイメージをそのまま鑑賞者のスクリーンに投射するだけで、それについての作者の意見まで加える必要はありません。それは鑑賞者の内面にそれぞれ想起されるもので、その前に作者が言ってしまっては、押しつけになるということです。    

  ままごとに外米入れる気の早さ         

 この場合は、外米がままごとにまで進出しているという現象だけ描けば充分で、「気の早さ」はそれに対する作者の感想です。感想まで言ってしまうと、鑑賞者にはすることがなくなります。             

  ままごとももう外米の名を覚え       

 ぐらいにしておけば、多少の鑑賞空間ができます。 

 
B「ら」抜きことばに留意
 

 近頃、「ら」抜きことばについていろいろといわれておりますが、いやしくも言語を媒体とした文芸ぐらいは正しい日本語を使ってほしいものです。       

  足向けて寝れない人と旅に出る         

 の「寝れない」はやはり耳障りです。「寝られない」とすると音数が増えるというのなら、       

  足向けて寝られぬ人と旅に出る        

 でいいでしょう。

 
C押しつけは避ける
 

  うちの孫はこうなんですよという報告で、家族にはどんな小さなことでも興味の対象になりますが、他人にとっては、とりわけどうということもありません。

  スキンシップ孫と雑魚寝もたのしくて

 といわれても、「ハア、そうでしょうね」というより答のしようがないのです。
 孫のかわいさは分かるのですが、それを売り物にしたり、押しつけるのは逆効果です。他人にとっては、それが「うちの孫」ではないからです。はやくいえば、どっちでもいいことを、聞かされていることになります。 どうしても孫のかわいさを作品化したければ、客観的に表現すればよいのです。「うちの」という限定された視線をはずして、孫そのものの仕草や振舞から「かわいさ」のイメージを引き出すようにすることです。
 家族の口から「裸が好き」などと報告しなくても、客観的に描写すれば、風景とともにそれが伝わります。
 江戸時代の句に、こんな句があります。

  男の子はだかにすると捕まらず        
  着飾って乳母は裸を追い回し
         

 着替えさせようとはだかにした子が、面白がって家中を逃げ回る情景がよく出ていますし、特に外出のために盛装してしまった乳母がそれを追いかけている図はユーモラスです。ことに後の句は、「孫」とも「子ども」ともいわず「はだか」というだけで、絵に描いたように風景が見えてくるでしょう。これが「描写」です。
  また、「孫と雑魚寝した」といえば、改めて「スキンシップ」とか「楽しくて」などといわなくても、その風景が喚起され、かわいさや楽しさは雰囲気として伝わりますから、中7音以外は、別のことを言えたはずです。
 たとえば、

  外孫が来て正月の雑魚寝する

とすれば、季節、背景などが加わって風景がはっきりし、「スキンシップ」も「楽しくて」も、言外に感じてもらえるでしょう。

 
D既成概念に寄りかからない
 

  縁なしに替えてもやはり品がない

 この句のもとをなしているのは、「縁なしメガネ」は上品なものという決めこみ、もしくは既成観念です。そうした脆弱なべースから引き出された「やはり」という作者のうなずきには、したがって客観的な妥当性が乏しいのです。「品」は、縁なし眼鏡が与えるさまざまな印象の中の一つに過ぎません。つまり、この句の発想そのものの拠りどころが、適当でないということです。

 

 
E個人的断定は避ける
 

  外人はビール飲みつつケーキ食べ 
 たまたまそういう情景にぶつかったのかも知れませんが、これでは外国人すべてがそうであるといっているようです。外国人といっても世界にはたくさんの国があり当然のことながら国民性も異なります。それをひとくくりにしたような言い方は、作者の独り決めがなせるわざで、一般の外国人にとっては迷惑なことでしょう。  
 なお、新聞などでは「外人」といわずに「外国人」と書くことになっていることを、ご参考までに。

 
F他人の心理の代弁も独善
 

 句の中で他人の心理にまで立ち入ると、シラけます。
   自分史を書きホッとして逝った友
 の「ホッとして」がそれで、ホッとしたかどうかは、当人だけしか知らないわけですから、これも独断の一つです。そうした当て推量より、事態を客観的に描いて、あとは読者の反応に任せるべきです。
   自分史を書いてポックリ逝った友

 
G中八音にはもう一工夫を
 

  狂わない時計が定年持って来る
  論理的過ぎるうえに「時計が定年」が中八音で、構成が窮屈になっています。こういう場合には、上下の入れ替えなど、もう一工夫が必要です。
   定年を待ってる狂わない時計
  で、無駄のない定型になります。

 
H安直な形容語を避ける 
 

  拳銃を食って素知らぬ神田川          
 警察庁長官狙撃の拳銃捜索を題材にした句で、「食って」などはおもしろいのですが、「素知らぬ」という主観的な形容が、擬人的に川の態度を代弁しただけで、かえって全体のひろがりを阻害しています。ここまでいわなくても、                    
  拳銃を食べてしまった神田川
 で、じゅうぶんでしょう。

 
I固有名詞の使用に留意
 

特別の場合以外、固有名詞やトレード・ネームは普通名詞に置き換え、普遍化して取り入れた方が無難です。
  螢までジェット機に乗り椿山荘         
 ホタルを擬人的に、しかもジェット機と取り合わせた素材・発想はいいのですが、ホテル名まで明示したぶん構成がぎごちなく、一句に流れが感じられません。また「螢まで」の「まで」が説明的で、おもしろさに欠けているのが惜しまれます。              
  ジェット機で都会の庭に着くホタル  

 
Jことば遊びは避ける
 

 機知は笑いの重要な要素ですが、いわゆる形式機知と呼ばれる文字面やことばだけで笑いを誘おうとすることは、駄洒落やジョークと同じで、文芸とか句というには遠いものになります。
 表面だけで笑わせようとしないで、ものの見方や受け取り方に機知性を発揮するのが、川柳です。 
  厚生省更生省と名を変える
  この同音の語呂合わせは、誰でも一度は考えるありふれた着想であるばかりか、どんな言い方をしても、風刺性や諧謔性が、これ以上になるというものでもありません。発想そのものを変えた方が賢明でしょう。

 
Kテニヲハの位置に留意 
 

 たった一字の助詞のあるなしや、位置を変えただけで句の印象が変わることは往々あります。       
  向う脛幾多の試練くぐり抜け          
 の「くぐり抜け」に、中間の助詞なしで接続させるなら「試練」より「幾多」の方が無理がありません。  
  向う脛試練を幾多くぐり抜け          
 また「幾多の」の「の」をはずして、原句の順序をくずさず
  向う脛幾多試練をくぐり抜け
 でもいいでしょう。要するに「幾多」の下の助詞は省略できても、「試練」の下には助詞(「を」)を補った方が、語法として自然になるということです。

 
L中六音は律子を壊す
 

  中八音などは、内容との兼ね合いで必ずしも否定できませんが、中六音は律調を崩し、一句を散文化させるだけですから、これは避けなければなりません。
  いたずらの孫を叱る目は笑い    
 の「孫を叱る」が六音で、調子を壊しています。たとえば「叱る」を「叱った」とするだけで七音になりますが、代語を考えることも必要です。
  いたずらの孫を睨んだ目は笑い

 
M「我」「我が」を濫用しない
 

  短詩型には、人称代名詞を読み込まないのが普通で、作者自身も句の上では客観化されますが、それが「自」か「他」かを判断するのは読者です。
  壇上の我には人の顔見えず
  この「我」も機能していません。特別の場合以外は、「我」や「我が」は、句全体に硬い印象を与えるだけでプラス効果は期待できません。
   壇上の視野に入らぬ人の顔

 
N漫然とした数詞を避ける
 

 句の中に数詞を使う場合には、第三者への説得力を持った、客観性と必然性のある数字にすべきです。 
  三十年指輪は今も変わらない          
 という「三十年」が、作者にとっては大切な真実であっても、第三者には二十年でも四十年でも感動の差はありません。加えて、その指輪が結婚指輪ででもあるのなら、五十年の金婚の方が、よりうなずきを与えるでしょう。員数やお金の多寡でも、これは同じです。   
  歳月のリングは褪せぬ薬指