推敲ということについて考えてみましょう。
「推す」か「敲く」かに迷った唐の詩人・賈島の故事から「推敲」という言葉が生まれたことは、ご存知のことと思います。むずかしく考えることはありません。要するに、患者と医者の二役を自分でする自己検診のようなものだと思えばいいのです。
自分の句が患者で、作者が医者になるわけです。見たところ健康そうな人でも、どこかに人知れぬ病気を持っているように、ベテラン・新人の区別なく、句には必ず病があると思っていいといえます。ベテランは、それを巧みに隠すすべを心得ていますが、新人や初心者の場合は、患部が丸出しになっていたり、ひとめで病気とわかる外見をしているという違いがあります。だから、それを自分で検診しようというのが推敲で、このためには、いくつかのチェック・ポイントを用意しなければなりません。
そのチェック・ポイントを通過して、初めて人前に出られる句になるというわけです。その関所は、・説明・報告・理屈・独善・詰込・詠嘆・説教・標語・語戯・空想の十ポイントです。これをおいおい解説しましょう。
・説 明 型
解説型ともいい、初心者にいちばん多いタイプ。極端に言えば「山は高い」「政治家はウソつきた」「ダイエットはつらい」といった決まり切った概念を、説明もしくは解説しただけの内容の句。ふつう「なになに(対象)はどうだ(説明)」という形を取る。
仲人の嘘の一つも結ぶこつ (原句)
その通りだが、その通り過ぎる。これでは、仲人のコツは嘘であると、従来から言われている「仲人口」を、あらためて定義しただけで、作者自身の目でとらえた新しいものは何もない。ここまでは、材料というべきで、そのウソのはたらきが、どんな効果を挙げたか、そうした風景を描写すれば、「結ぶこつ」などという説明は不要になる。
仲人の嘘が結んだ睦じさ (添削句)
とでもすれば、ほほえましい風景が読者にも伝わる。
鮎をとる鵜匠舟ばた叩きつつ (原句)
見たまま、というにしても、「鵜匠」に「鮎をとる」という説明は不要。 「舟ばた叩きつつ」などというせっかくの描写も、これではドブへ捨てたようなもの。それを生かすには、もう少し別の角度に目をはたらかせることが望まれる。
舟ばたを叩く鵜匠の腰が生き (添削句)
もう一句。
紅白の歌合戦は大みそか (原句)
これも、自明のことを五・七・五で言っているだけ。これでは、句とか文芸とかいうよりお知らせのビラのようになってしまう。こんな当たり前のことでも、ひとつの風景として描けば、動きがも出てきて、句らしい姿になる。
紅白に家族も分ける大晦日 (添削句)
物事の説明だけを聞いても、おもしろがる読者はいない。推敲の第一のポイントは、一句がただの「説明になっていないか」、それをまず自分に問うことである。
・報 告 型
これも、初心者によく見られる病で、ある事柄を「報告」するだけで事足れりとするタイプ。極端にいえば「目が覚めて顔を洗って朝の飯」という類で、形は五・七・五になるけれども、これではただの日常報告に過ぎない。
連休に疲れ残れり大あくび (原句)
連休で疲れました、そうでしょう、というだけ。「大あくび」も、「疲れ―あくび」というありふれた回路で使われているに過ぎないから、実際の動きとしてのイメージにはつながってこない。物事を順に並べた報告体を避けるには、その中の何を中心にするかのメリハリが必要で、ここでは「大あくび」を生かせばいい。
大あくびして連休を締めくくる (添削句)
ゴミ袋ささげてパジャマに見送られ
と目に見えてくること。アクビしながらパジャマで見送る妻と、途中で集積場に置いていく大きなゴミ袋をぶら下げた夫― それだけで、その背景にある人間関係がいやおうなく想像されて、読者の笑いを引き出す仕掛けになっている。B当世夫婦関係のひとつの側面をとらえている。Aこの句は、「見送られ」る分だけ救いがあるが、こんな句もある。
まだ寝てる帰ってみればもう寝てる 〔2〕
これも、主語が省略されているけれど、「寝てる」のは妻のほうでしょう。二つの「寝てる」を、夫のほうと解したのでは、おもしろくもおかしくもない。これは夫の目から作られた句で、この中から、いくつかの現代風俗が見えてくる。まず、通勤圏が遠距離で、夫は早く家を出て、遅く帰ること、また、子供のいない夫婦二人きりの生活、つまり少子時代であること、しかも家庭での主導権はどうやら妻が握っているらしいことなどななどが、ことばの外にある背景として描かれている。これは、サラリーマン川柳十年のうちでも、歴史に残る句だと思う。ついでに、もう一句。日曜日起きてる妻にやっと逢え[6]A誰かのセリフじゃないけれど「一週間のゴブサタでした」なーんて。
淡々とした言い方が笑いを誘うんだね。ちょっと、視角を変えよう。
遠吠えの癖はやっぱりボクの犬
[1]
わびしいような、切ないような。Bサラ川には、こうした自嘲の句が少なくないが、飼い犬に託しての自嘲というところにおもしろさがある。句は単一表現より、こうした取り合わせが有効なんだな。同じような内容の句では、
帰っても窓の近くにすわるクセ [2]
わが家でも疎外されてる窓際族。いまの一般家庭には、床の間も大黒柱もない。父の座なんてものは、遠い夢物語になってしまったということだね。これが、会社にいれば、
一つしかない窓際を一人じめ [6]
ということになる。
A どうも、かわいそうな亭主族やお父さんの句が続いて、辛気臭くなったなあ。もう一句だけ、傑作を挙げておきたい。
晩酌に毎日通う販売機 [2]
いまのサラリーマンは、仲間同士でワイワイやるより、独りしずかに飲む傾向に変わってきたと言われますね。
B 仲間との酒は煩わしいし、自宅での晩酌は、なお気詰まりなんだろう。販売機は、「まだ飲むんですか」なんてうるさいことは言わないし、追加するたびに礼まで言ってくれる。
A 身につまされるなあ。しかし、これも時代をとらえている。
B そろそろテーマを変えようか。
入院の部長を見舞うあみだくじ [3]
A わかる、わかる。「あみだくじ」はバッチリですね。
B 猫の鈴つけ役を選ぶわけだからね。だけど、口には出せないが本当はは自分が行きた
いと、ひそかに願っている者もいるかもしれない。
肩たたく部長の肩は秘書が揉み [5]
A 秘書でなくても、揉みたいやつはいるでしょう。
B 要領のいいのは、どこの社会にもいる。
さあやるか昼からやるかもう五時か [4]
A 腰は重いのに、句はまことに軽快ですんね。
B この句は、昨年、〈ロサンゼルス・タイムズ〉が川柳を紹介したおりに例句の一つとして、こんなふうに紹介されている。
Shall I do it now ?
Shall I do it after lunch ?
Is it already 5 ?
英文のほうも、なかなか調子がいい。これを「時間泥棒である一人の会社員の、とても楽しい罪の意識」と、記事は解説している。サラ川も、いまや国際的になった。
A 上司から見た社員というのは?
B サラリーマン川柳だけに、上から下を見た句は多くない。しかし、こんな句もある。
一人だけ笑わぬ部下がいる不安 [2]
上司にとっては、こんな部下がいちばんケムったいのだね。
A 女子社員にも、おもしろい句があるでしょう?
B お局さんやセクハラを扱った句は多いが、次に挙げる句はなかなかいい。
OLの口につけたい万歩計 [4]
秘書は皆美人と決めていた不覚 [5]
A いずれも男の目から見た女子社員像だが、「万歩計」とは、まさにサラリーマン川柳の面目躍如といったところだし、二句目の「不覚」も、幻滅が己へ向かうことで、笑いを増幅している。また、同じOLを対象とした句では、「ダイエット」にも傑作が見られる。
ダイエット今食べたのは明日の分 [6]
ダイエットグラムで痩せてキロで肥え [6]
太るならおいしいもので太りたい [6]
A 「明日の分」なんて、女性心理をみごとにとらえていますね。
B 「ふとるなら」という居直りの心理もおもしろい。
・既成概念に寄りかからない
縁なしに替えてもやはり品がない
この句のもとをなしているのは、「縁なしメガネ」は上品なものという決めこみ、もしくは既成観念です。そうした脆弱なべースから引き出された「やはり」という作者のうなずきには、したがって客観的な妥当性が乏しいのです。「品」は、縁なし眼鏡が与えるさまざまな印象の中の一つに過ぎません。つまり、この句の発想そのものの拠りどころが、適当でないということです。
・個人的断定は避ける
外人はビール飲みつつケーキ食べ
たまたまそういう情景にぶつかったのかも知れませんが、これでは外国人すべてがそうであるといっているようです。外国人といっても世界にはたくさんの国があり当然のことながら国民性も異なります。それをひとくくりにしたような言い方は、作者の独り決めがなせるわざで、一般の外国人にとっては迷惑なことでしょう。
なお、新聞などでは「外人」といわずに「外国人」書くことになっていることを、ご参考までに。
・他人の心理の代弁も独善
句の中で他人の心理にまで立ち入ると、シラけます。自分史を書きホッとして逝った友の「ホッとして」がそれで、ホッとしたかどうかは、当人だけしか知らないわけですから、これも独断の一つです。そうした当て推量より、事態を客観的に描いて、あとは読者の反応に任せるべきです。
自分史を書いてポックリ逝った友
・中八音にはもう一工夫を
狂わない時計が定年持って来る
論理的過ぎるうえに「時計が定年」が中八音で、構成が窮屈になっています。こういう場合には、上下の入れ替えなど、もう一工夫が必要です。
定年を待ってる狂わない時計
で、無駄のない定型になります
・安直な形容語を避ける
拳銃を食って素知らぬ神田川
警察庁長官狙撃の拳銃捜索を題材にした句で、「食って」などはおもしろいのですが、「素知らぬ」という主観的な形容が、擬人的に川の態度を代弁しただけで、かえって全体のひろがりを阻害しています。ここまでいわなくても、
拳銃を食べてしまった神田川
で、じゅうぶんでしょう。
・固有名詞の使用に留意
特別の場合以外、固有名詞やトレード・ネームは普通名詞に置き換え、普遍化して取り入れた方が無難です。
螢までジェット機に乗り椿山荘
ホタルを擬人的に、しかもジェット機と取り合わせた素材・発想はいいのですが、ホテル名まで明示したぶん構成がぎごちなく、一句に流れが感じられません。また「螢まで」の「まで」が説明的で、おもしろさに欠けているのが惜しまれます。
ジェット機で都会の庭に着くホタル
・ことば遊びは避ける
機知は笑いの重要な要素ですが、いわゆる形式機知と呼ばれる文字面やことばだけで笑いを誘おうとすることは、駄洒落やジョークと同じで、文芸とか句というには遠いものになります。
表面だけで笑わせようとしないで、ものの見方や受け取り方に機知性を発揮するのが、川柳です。
厚生省更生省と名を変える
この同音の語呂合わせは、誰でも一度は考えるありふれた着想であるばかりか、どんな言い方をしても、風刺性や諧謔性が、これ以上になるというものでもありません。発想そのものを変えた方が賢明でしょう。
・テニヲハの位置に留意
たった一字の助詞のあるなしや、位置を変えただけで句の印象が変わることは往々あります。
向う脛幾多の試練くぐり抜け
の「くぐり抜け」に、中間の助詞なしで接続させるなら「試練」より「幾多」の方が無理がありません。
向う脛試練を幾多くぐり抜け
また「幾多の」の「の」をはずして、原句の順序をくずさず、
向う脛幾多試練をくぐり抜け
でもいいでしょう。要するに「幾多」の下の助詞は省略できても、「試練」の下には助詞(「を」)を補った方が、語法として自然になるということです。
・中六音は律子を壊す
中八音などは、内容との兼ね合いで必ずしも否定できませんが、中六音は律調を崩し、一句を散文化させるだけですから、これは避けなければなりません。
いたずらの孫を叱る目は笑い
の「孫を叱る」が六音で、調子を壊しています。たと
えば「叱る」を「叱った」とするだけで七音になります
が、代語を考えることも必要です。
いたずらの孫を睨んだ目は笑い
・「我」「我が」を濫用しない
短詩型には、人称代名詞を読み込まないのが普通で、作者自身も句の上では客観化されますが、それが「自」か「他」かを判断するのは読者です。
壇上の我には人の顔見えず
この「我」も機能していません。特別の場合以外は、「我」や「我が」は、句全体に硬い印象を与えるだけでプラス効果は期待できません。
壇上の視野に入らぬ人の顔
・漫然とした数詞を避ける
句の中に数詞を使う場合には、第三者への説得力を持った、客観性と必然性のある数字にすべきです。
三十年指輪は今も変わらない
という「三十年」が、作者にとっては大切な真実であっても、第三者には二十年でも四十年でも感動の差はありません。加えて、その指輪が結婚指輪ででもあるのなら、五十年の金婚の方が、よりうなずきを与えるでしょう。員数やお金の多寡でも、これは同じです。
幾歳月リングは褪せぬ薬指
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