現在わたしたちが「川柳」と呼んでいる短詩文芸の名称が定着
したのは、明治後半からで、本来は、川柳風狂句とか川柳狂句、
また季なし俳句などと称したものです。江戸の末期から恣意的に
は川柳と呼ぶこともありましたが、文芸そのものの近代化ととも
に、あらためて「川柳」が固定した呼称となりました。これには他の文芸には例のない特殊な経緯があります。
というのも、この「川柳」というのは個人の名(俳名)で、江
戸時代中後期(十八世紀後半)の新興都市江戸に登場した、前句附というものの点者(宗匠)に由来します。
など、よく知られた多くの句を世上に流布させた当時超一流の選者で、いつの間にか、この選者の号「川柳」が文芸の代名詞のように喧伝されるようになりました。
江戸浅草新堀端の天台宗龍宝寺門前(現・台東区蔵前四丁目)
の名主で、柄井八右衛門(通称正通 1718〜90)という人が宗匠となって、号を川柳(かわやなぎ)と名乗ったのは宝暦八年(1758)のことで、以後三十三年間、点者として第一人者の地位にありましたが、この人の選句が江戸人士の嗜好に合い、
大いにもてはやされました。『誹風柳多留』などの代表的選集も
刊行され、他の同業点者を押しのけて、現在に受け継がれる17音文芸の祖と仰がれるようになったものです。
生涯に閲した句は数十万に及び、二百年を経た現在なお庶民に
親しまれる多数の名句を世に出し、寛政2年9月23日、72歳で没しました。毎年、菩提寺の天台宗龍宝寺で川柳忌が営まれています。
江戸後期以来、「川柳」の号には代々があり、「宗家」という
ものを継承してきましたが、明治30年代に新風が興り、近代化
される過程で、そうした制度を廃して自由な文芸となり、さらにその後、人名(俳号)を文芸名とすることに異議が唱えられ、改称しようという試みが繰り返されました。新風俗詩、新柳句、短詩、寸句、草詩、柳詩、俳詩、風詩、諷詩、第三短句など、さま
ざまな新称が提出されましたが、いずれも普及化するにいたらず、
現在なお「川柳」の名で呼ばれているわけです。
江戸に興った音曲名である「義太夫」や「清元」、また「都々逸」などは創始者の名がそのまま音曲の名になったものですが、
かりにも文芸を名のるもので個人名が継承されているのは川柳だ
けで、それも大きな特性のひとつといえます。
それでは、柄井川柳が点者をつとめた「前句附」というのは、
どんなものだったのでしょう。
5・7・5の発句(現在の俳句)に始まり、7・7の短句、また5・7・5の長句と交互に詠み続けていくのが俳諧(連句)ですが、その
うちの一単位である長句と短句、つまり短歌の上の句(5・7・5)
と下の句(7・7)に当たる部分だけをを抜き出して、附け合うの
が前句附です。
たとえば、
という七七の短句(前句)を題に、
という五七五の長句(附句)をつけて、両句のあいだにはたら
くウイットやユーモアを競い合うというもので、江戸時代にはこ
れが一種の娯楽的な懸賞文芸として、庶民の間にたいへん流行し
ました。
この前句附の前句(題)を切り離して、五七五の一句立て形式
にしたものが現在いう「川柳」ですが、その独立への橋渡しをしたのが、柄井川柳であったというわけです。
撰集である『誹風柳多留』には、すべて前句が省かれ、一句で意味がわかり、独立した面白さのある句ばかりが選ばれています。
素の手本となったのが、江戸座俳諧師・慶紀逸の編んだ『誹諧武玉川』でした。
こまかい経緯は省略しますが、「川柳」とは、18世紀半ば、
前句附を母体にして江戸に興った特殊な短詩文芸の一つと考えてよかろうと思います。
江戸川柳のうちでも、柄井川柳が評に当たった宝暦7年(1757)から寛政元年(1789)にいたる33年間の選句を、
とくに「古川柳」と呼びますが、前記の『誹風柳多留』では初篇
〜二十四篇に当たるこの期間には、人口に膾炙した著名句をふく
めて、多くの名句・秀作がひしめいています。川柳を文学の地位に押しあげたのは、この古典期の作品で、同じ「笑い」でも質が
高く、洗練された「うがち」の目に支えられています。
いわゆる世態・人情の機微をとらえた古典句の中からほんの一
部を読み易いかたちで掲げてみましょう。
一見、オヤと矛盾を感じさせて、実はリアリズムそのものといった古川柳の真骨頂。ちょっと意地の悪い、しかし最後まで行き
届いた観察の目がはたらいています。
「生まれた文」というのは「嫁ぎ先の娘に初孫が無事誕生したと
いう報らせの手紙」のこと。それを実際の孫のように抱き歩く里方の母の姿がほうふつとします。
美しいとか、可愛らしいとかいうイメージを一転、かんざしを
「おそろしい」と言い切って、なおかつ読者をうなずかせてしまう心にくさ、いわば意表をつくおもしろさです。
この句が実はきわめて深刻な内面の葛藤を描いていることは、
そうした経験のない人にも伝わります。古川柳の「軽み→笑い」
を代表する佳句です。
「お帰りなさい。おっつけこの子が寝つくまで、そこの棚のイワ
シで先にやっててくださいな」― 若い職人親子三人の水入らず
の生活断面が目に見えるようです。
ヘソクリのテクニックにかけては、江戸の女性も現代の女性も変わりはありません。「ム?」と、魔法にでもかけられたような亭主の顔が浮かんできませんか。
一茶の俳句「大根引大根で道を教えけり」の様式性に比べると
この句からは人間同士の呼吸や土の匂いまでしそうな現実感が迫
ってきます。作者自身が、句の中に登場しているからです。
恥かしいさかりの娘に、たった一匹のアリがはい込んで、とうとうヌードにしてしまったという、誇張と、人の意表をつく古川
柳独特の諧謔です。
家々を売り歩く小商人のしぐさを見事にとらえたリアリズム。
愛想に格好だけしてみせるのを「なんにもないを汲む」とは、いかにも言い得て妙といところです。
わずかな例に過ぎませんが、古川柳の一斑はうかがえると思い
ます。
ところが、柄井川柳の没後、すぐれた選者の不在や、言論・出版への厳しい締めつけといったもろもろの理由から、この短文芸の文学性がいちじるしく低下し、明治の後半期まで百年ほど続き
ますが、この間、これを「狂句」と呼ぶようになりました。
一言でいえば、古川柳を「機知」の文芸とすれば、狂句は「形式機知」の文芸で、ともに言語を表現手段としていても、古川柳は内容を、狂句は言葉のアヤを、それぞれ重視するという違いを指摘することができます。
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