堕落への諸事情

 古川柳の特徴は、その行き届いた<目>にあります。それは、さまざまな人間関係がからみ合う社会の表裏、さらに断面へと踏み込み、時に卑近・通俗ではあっても、そのぶん現実世界の真実を捉えているということです。
 江戸末期の歌人・西田直養は、柳多留を評して「このもののするどく神妙なることは又俳諧の発句にまされり」といい、明治の文人・村上浪六は「正に是れ世態人情を穿てる一篇の人間学」であり、「哲人の千思万考を嘲るの慨」があると称揚しております。

 穿ちと笑いの文芸として、江戸文学に位置づけられた古典期は、しかし、それ以後の長い低迷期に比べると、三分の一にしか当たりません。
 一般に、写実から技巧への推移は、文芸おしなべての方向を示すものですが、古川柳もまた、30年を越える単独選の過程で、題材的にも方法的にもマンネリズムが浸食、表現技巧だけで新奇を衒い、<目>をはたらかせるより<頭>で考える観念化の方向へ流れていき、初期のころの写実から生まれた穿ちや、巧まざるユーモアに、深くうなずき、また思わず破顔するといった妙味を、しだいに失いました。しかも、こうした傾向が、初代川柳の死を契機に、その度合を強めたのは、寛政2年5月、文化元年4月と相次いだ幕府の出版物への規制、販売の制限が、大きな影を落としていることを見のがすことはできません。
 川柳没後の十年ほどは、桃井庵和笛によって引き継がれ、柳多留も継続的に刊行されましたが、その和笛が世を去るに及んで、川柳派は衰亡の危機に直面します。柳多留も新版の見込みはなく、旧版の改削で辛うして空白を埋める状態が続きました。
 文化の改元(1804)とともに、ようやく復活の機運が起こりますが、再び世に出た川柳風の在りようは、古川柳時代とは全く態様を一変していました。

 一人の点者に、あとの全部が作者という万句合の形態は、立評、副評、楽評、加評などという恣意的な複数選者による地域別の月次句会に変わり、柳多留はその句会報に過ぎなくなりました。

 作句の契機が変わり、選句の方法が変われば、当然、句も変わります。内容は低落の一途を辿りました。しかも、出版物の規制による発想・題材・言語への抑圧の下では、<目>は何の役にも立ちません。生きた社会や人間生活が対象にできなくなれば、いきおい<頭>のなか、つまり観念に逃げ込むしか道は残されていなかったといえます。そうした頭の中だけのささやかな遊び、観念の産物が、のちに″狂句”と呼ばれる文芸に似て文芸にあらざる句態です。
 川柳史の暗黒時代として、文芸史的にはカットされてよい部分ですが、簡単に触れておきます