「狂句」を知るためには、まず古川柳の特性に付いて把握しておきましょう。
狂句というのは、阪井久良伎が「形式機智」と呼んでいるように、同じウィットでも、表現されるべき内容よりも、表現(形式)それ自体に主眼を置くもので言語の機智的組合わせ、洒落・地口・縁語・懸け詞などを主要な表現方法とするものです。
こうした発想は、初代川柳評の初期から、その一端を見せておりますが、次に『柳多留』初篇から幾つか掲げてみます。
雪隠の尾根ハ大かたヘの字形り (雪隠せっちん=トイレ : 屁の縁語)
伊豆ぶしも八代迄ハだしがきゝ (伊豆武士→伊豆節 : だしの懸け詞と縁語)
色事に紺屋のむすめうそをつき (「紺屋のあさって」のひねり)
これらは、いわば頭のなかからひねり出されたおかしさで、真の感銘は与えないでしょう。勿論、この頃はまだ「狂句」という名称は使われていません。
この句態に「俳風狂句」という名をつけたのは、四代目川柳を嗣いだ眠亭賤丸です。
賤丸は、本名を人見周助(1778−1844)といい、江戸南町奉行所附の書物方同心、文化年代初めに二代川柳の門に入り、20歳代から文日堂礫川の率いる小石川連で頭角を現わして、四十七歳の文政7年には、四世を嗣号しました。
これは、旧師である文日堂の強い推挙によるもので、その襲名披露の句莚は、寄句一万、評者13名、開巻に二昼夜を徹する「古今の大会」(『柳多留』82、83篇)でした。
この四代川柳が「俳風狂句」を唱えたのは、嗣号2年目の文政9年です。
これは、初代川柳以来の文芸をも含めての呼称で、折から江戸向島の木母寺境内に川柳の碑を建立するについて、肩書をつける必要から考え出されたもので、碑面には「東都俳風狂句元祖川柳翁之碑」と彫られました。
『柳多留』刊行以降、一句立てとしての性格を強め、文化期以後は独立単句の形で復活したものの、その句態に対する定まった呼称がなかったというのが理由ですから、四世自らも俳風狂句元祖と名のってはいますが、「抑も俗語を旨とし、人情を穿ち、新しきを需るに、今は下の句ありて上の句といへるは少く、始めより一句に作りたるが多ければ」と自記するように、その形体から新しい名称をつけたといっても、性格や内容まで規定したものではありません。
狂句というものの性格を整理し、その在り方を示したのは、五代川柳を嗣いだ鯹斎佃(なまぐさい
たづくり1787−1858)で、「句案十体」と称する式法を定めています。十体というのは、
正体 反復 比喩 半比 虚実 隠語 見立 隠題 本末 字響
ですが、いずれも、謎や縁語や洒落を基本とした観念の遊戯に類するもので、表現のうえでは、ことばの″掛け合わせ″が条件づけられています。
文化・文政から天保期にいたる最盛期の例句を少しだけ挙げておきます。
野や草を江戸へ見にでる田舎者 〔31篇、文化元〕
野や草を見に江戸へと意表を衝く狙い、実は「野」は上野、「草」は浅草。
亀四匹鶴が六羽の御縁日 〔54篇、文化8〕
。
出霊ほどかみの集るいい研屋
〔78篇、文政6〕
「かみ」は<神>と、刀の銘の<守>「かみ」両義をかけてのモジリです。
島へ島偲んだ果は島の沙汰 〔88篇、文政8〕
絵島と生島新五郎の情事で、生島は八丈卦へ遠島になったという語呂あそび。
泥水で白くそだてたあひるの子 〔105篇、文政12〕
「泥水」「白く」の反対概念の取合わせ。「あひる」は娼妓の異名で、泥水稼業。
晴天に稲妻が出る西の方
〔131篇、天保5〕
晴天十日の相撲に西方から稲妻(大関)が出るというのと両義にかけたもの。
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