狂句批判と「前句源流」

  

 狂句というものを一言でい、えば、「掛合せよく笑みある」句ということになります(「句案十体」)。懸合せの主なものに古来から縁語と掛け詞がありますが、いわばそうした″ことばの技巧″だけで″おかしみ″を表現しようとするところに狂句の特徴があり、これが必然的に言葉遊びへの傾向を強め、遂には表現様式という器だけあって、盛るべき内容のない閑文字へと堕していきました。
 形骸化したのは句ばかりではなく、宗家(川柳)という権威を中心にした閉鎖的組織によって、本来自由であるべき文芸の精神にまで、画一的な枷が加えられてきたことについては、早くから一部で批判の声があがっていました。
「川柳は文学の一部なり、文学は一人の私有すべきものにあらず」と冒頭し、「全国一人」 の「川柳宗家」から許可を得なければ、句を判ずることも出来ないなどというのは「道理上なき」ことであり、「抱腹に堪えぬ事なり」と、和歌の二条・冷泉両家の例を挙げて、その「圧制」を指摘したのは、文人・半沢柳坡で、明治二十五年のことです(東京・穎才新誌社刊『川柳作法指南』)。
 右のような狂句の現状に対して、これではいけない、この短文芸をもういちど価値あるものに戻し、歴史的な存在意義を再確認しようという意識に目覚めたのが明治三十年代後半で、新しく登場する作家群によって実践に移されますが、これを新川柳運動、もしくは明治の川柳中興と呼んでいます。
 まず、狂句に堕して以降ほぼ百年の歴史を否定し、初代川柳評時代の文芸精神と、初期の柳多留にみられる自由な息吹き、生き生きしたすがたを取り戻そうという川柳の復興から、それは始まりましたが、この最初の火つけ役ともなったのが、中根淑のエッセイ「前句源流」でした。
「前句源流」は、明治35年3月に創刊された金港堂の雑誌「文芸界」の第一号から連載された長文のエッセイで、前句附から狂句にいたる雑俳の系譜を明らかにした最初の本格的川柳史として、画期的な意義を持つものでした。
 中根淑(1839−1913)は旧幕臣で、維新後は陸軍参謀局、文部省編輯官などを経て退官、以後自適の間に多くの著書を公けにしていますが、和漢雅俗の学に通じた一流人で、香亭と号しています。「前句源流」は5万字におよぶ格調高い論述で、克明な例証を挙げて、前句附の沿革を辿り、その変遷と分岐を解明したものですが、初期柳多留の句に触れて、「其の間、人情に適切なるもの多きを以て、正人君子と雖も、之を見て其の妙を歎ぜざるはなき」一面を称指しながら、その稿を結ぶに当たっては、「かゝる遊戯三昧の小文芸は、後来終に再発の期なかるべく、将た又敢て其発生を希はざるなり」と、唾棄ともとれる言葉をもってしています。

 正人君子を歎ぜしめた妙句から、遊戯三昧の小文芸へ−これは、そのままが川柳の歴史にほかなりません。「前句源流」が、古川柳の文芸価値を高く評価しながら、ひるがえって、その歴史につながる現行の狂句の無趣味、低俗を論難したレトリックは、そのままのかたちで新川柳運動のスローガンとなり、「狂句百年の負債をかえせ」とか「初期柳多留へ還れ」とかいう基本的発想を引き出したといえるでしょう。

「前句源流」の啓蒙的意義は、新しい文芸への獣酎を、つながしたばかりか、それ以後の川柳に関するあらゆる研究の原典になった点でも、特筆されなければなりません。

 
戻る

 

川柳博物館 柄井川柳 歴代川柳 誹風柳多留 川柳公論
川柳の特徴 呉陵軒可有 花屋久治郎 マスコミ川柳募集  尾藤三柳
川柳の歴史 古川柳時代 明治・大正 新川柳時代 博物館ニュース
ドクター川柳 教    室  図書資料 研究室 句碑リンク
English 色紙・短冊 東京の句碑   川柳リンク 
川柳質問箱 クイズde川柳 川柳作句教室 掲示板 管理室
   ラマズ・タンカ・プロジェクト    東洋の伝統絵画「タンカ」

絵具博物館