<活動>文化元(1804)年?嗣号―文政元(1818)年10月17日
誹風柳多留34−70篇
<号> 若菜?/無名庵
宝暦9(1759)n年江戸生れ(通説)。初代川柳の長子といわれる。
柄井弥惣右衛門(幼名:六之助。字名:幸孝)のち八右衛門。
初代川柳の没後、10年絶えていた名跡を川柳風惣連中の希望で文化元年秋から2年9月までの間に嗣号。
誹風柳多留35篇は、嗣号記念の独撰。文化5年春ごろから、社中によって営まれた「草庵」に住み、川柳風の主選を文日堂と二分する。職業点者となるまでは、一橋家への武家勤めであったという。
文政元(1818)年10月17日没。法名:円鏡院智月寂照信士?。天台宗・龍宝寺に葬られる。
代表句 |