川柳のふるさとは江戸である  

  川柳は、「浅草」で生まれ「上野」で文芸になった!

 川柳は、「前句付(まえくづけ)」という娯楽的な文芸を母体として生まれました。5・7・5の発句(現在の俳句)に始まり、7・7の短句、また五七五の長句と交互によみ続けていくのが俳諧(連句)ですが、そのうちの一単位、つまり短歌の上の句(5・7・5)と下の句(7・7)を抜き出して、附け合うのが前句付です。たとえば、  

      切りたくもあり切りたくもなし

という7・7の前句(短句)を題に、

      泥棒を捕えてみれば我が子なり

という5・7・5の付句(つけく 長句)をつけて、両句のあいだにはたらくウイットやユーモアを競い合うというもので、江戸時代これが一種の懸賞文芸として、庶民の間にたいへん流行しました。この前句付の前句(まえく 題)を切り離して、「5・7・5」の一句立て形式にしたものが川柳ですが、その独立への橋渡しをしたのが、江戸の前句付点者(てんじゃ=選者)であった柄井川柳です。
 川柳発祥の地は、柄井川柳翁が住んでいた「浅草新堀端龍寶寺門前」で、<川柳発祥の地>記念碑が建立されました。
 選集である 『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』 には、すべて前句が省かれ、一句で意味がわかる面白い句ばかりが選ばれています。つまり独立文芸としての川柳は、18世紀半ばの江戸がふるさとということになります。
 誹風柳多留の版元・花屋久次郎があった上野広小路には、文芸川柳発祥を記念して<誹風柳多留発祥の地>記念碑が建っています。
 

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