作者の態度を明確に
時事川柳というのは、絶えず新しい対象を求めて、ナマの時代
相を反映することで、同時代に生きる読者の端的な共鳴、共感を
得ようとするものですが、それはもちろん、一時的な現象報告で
はありません。深い洞察と的確な認識を踏まえた作者の「態度」
に裏打ちされて、はじめて作品たりうるのです。
単に新聞の見出しを引き写しにした「時事」ではなく、現在流
動の中にある事象をとらえて、それに作者の態度が注ぎ込まれた
「時事」を、作品の対象とするのが時事川柳です。
時事川柳には、したがって事象に対する作者自身のアングルあるいはスタンスというものが明確にされなければなりません。ある事実があったというだけで、作者がそれに反対なのか賛成なのかも分からないのでは、ただの時事報告に過ぎないでしょう。
例えば、「消費税」や「PKO」問題を取り上げるのでも、作者がそれに反対なのか、賛成なのか、それも積極的なのか消極的
なのか、あるいはどちらでもよいのかによって、作句の角度は変わってきますし、句のうえに現われる姿は同じように見えても、
その奥にあるニュアンスの違いは、自然に感じ取れます。
といっても、時事川柳の場合は、常に否定的な立場に立つのが
特性でもあり、肯定的な問題については、格別それを素材とする
必然性もないわけです。
作者の態度が、当面の事象に対して絶えず批評的もしくは批判的な角度で臨むことから、時事川柳は一般に風刺的なすがたを取ることになります。というよりは、「時事川柳」と呼ぶ時の「時事」は「時事風刺」の意味であると理解していいと思います。
時事風刺の前提となるのは、何よりもまず客観的で的確な対象の把握で、これがすべての出発点になります。
次に、風刺の根底に据えられるのは、いうまでもなく批評(批判)精神です。作者は、だから単なる傍観者の位置に甘んじていてはいけないのですが、といって反面、過度の主観性は一方通行
になりやすく、作品としてのアピールを欠くことになります。
政治や社会を批判するという場合、いちばん注意しなければならないのは、「一言居士」や「小言幸兵衛」にならないということで、これは前章でも触れました。妥協のない目は、ひとしく自分自身にも向けられるわけですから、一方的に相手を叱りつけたり、糾明するだけで、自分は別といった身の置き方や、自分だけ
を甘やかす態度は許されないのです。
例えば、総理大臣が頼りにならないことを指弾しても、そういう人物が総理に選ばれるような政治システムに甘んじている国民の側の責任はやはり免れないでしょうし、欠陥だらけの社会を嘆いても、現に自分がその社会を構成する一員であることから逃げ出すわけにはいかないのです。
政治をけなし、社会をそしることは、同時に自分自身をも傷つけることになります。批判は、当然自分にもはね返ってくるもので、どんな場合も「自分だけは別」ではあり得ないのです。
「風刺は両刃の剣」といわれるゆえんです。
風刺や批判は、したがって自分もまた傷みを感じることで、は
じめて成り立つものと心得なければなりません。
主観に偏ることのない客観性を維持しつつ、そのうえで、自分の立場や態度を明確にするというのは、なかなか容易なことではありませんが、そこに時事川柳のレーゾンデートルがあり、作り
甲斐もあるということができましょう。
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