2009年、文京区に新しい川柳会が生れましたが、当地区は、江戸時代より川柳の盛んな地域で、下谷、麹町とならび小石川の川柳グループが、初代川柳没後の川柳を中興し、250年にわたる川柳文芸の繁栄の礎を築きました。
今日、多くの人々によって親しまれている<川柳>は、もともと、一人の前句附点者・柄井川柳の俳号が文芸名になったものですが、初代以後も代々継承され、十五代目川柳が健在です。
その歴代川柳の一人、八代目の児玉川柳は、明治における宗家として文明開化による変革の時代に川柳の灯を守り、初代川柳の「正當百年祖翁忌柳風狂句合」を成功させるなど、川柳史上に功績を残しました。また、明治25年10月1日に亡くなったに児玉川柳は、茗荷谷の林泉寺に葬られ、文京区とゆかりの深い柳人となりました。
昭和はじめには、すでに無縁となり墓石も整理されてしまったことを惜しんだ当時の川柳界の長老・高木角恋坊により昭和3年に八世供養のための地蔵尊が建立され、墓碑とされましたが、ふたたび戦後の混乱と関係者の他界により、この地蔵尊は、同寺境内の無縁地蔵群の中に埋没、ふたたび忘れられた存在になっていました。
文京に新たな川柳文化を継承するグループが生れ、川柳学会の尾藤一泉の指導を受ける中、文京区と川柳の深い関係を知り、また同氏による地蔵尊存在の再確認という経緯があり、偶然にも、八世児玉川柳の120回忌の年を迎えるという契機を得ました。
事業の目的は、八世個人を供養するというより、この文京の地に葬られ、物証としての地蔵尊が発見されたことを契機に、「地域文化としての川柳と文京区の関係を解き明かし、先人の遺徳を偲び、川柳文芸の発展・普及を期するとともに、川柳を通じて日本語文化の再認識、向上・発展、さらには地域振興を目指す」ことにあります。 |