ご りょう けん か ゆう
呉陵軒可有

 
誹風柳多留初篇の序・直筆?と。「浅下の麓呉陵軒可有述」と読める

 ビジュアル史料

 呉陵軒可有こと作者名・木綿は、『誹風柳多留』の企画者、著者として重要な人物です。
 柳多留の刊行は、前句附点者・川柳の名を不動のものとする契機となりましたが、その編集の狙いは「一句にて句意のわかり易きを選び」(初篇序)というように呉陵軒による『誹風柳多留』版行における一句独立性の標榜、すなわち、単なる前句附から、川柳という独立文芸に至る道をひらきました。
 作家としても有力で、万句合でも高点を逃さず、いつも賞品の木綿を取ってしまうことから、周囲の連中に苦言を言われると、目を細めて「ごりょうけん、ごりょうけん」と言ったことがそのまま俳号になったといいます。また「木綿」の前句附表徳も、賞品の木綿からとったものです。呉陵軒可有の読み方については「ごりょうけんあるべし」の方が洒落が効いているのかもしれませんが、柳多留著者としては「かゆう」の方が格調があるようです。
 『誹風柳多留』初篇から22篇までを選んだ目は、川柳という文芸に方向性を強く与えました。
 また、呉陵軒は「木綿門葉」の好作家を排出していることから、指導者としても川柳連中に与えていた影響の大きさを伺えます。
 呉陵軒という名の音から、呉服屋ではという説(前田雀郎)もありますが、その実態は不明です。本人の作品の質の高さは元より、「川柳性=柳多留の本性」の顕在化、川柳としての文芸観の確立といった才能は、単なる大店の隠居といった感じはせず、むしろ武家の留守居役(三柳説)、ないしは神主(十五世川柳説)のような学識ある職業に関連しているのではないかと想像される。著書として、『誹風柳多留』の他に『繁栄往来』(安永6年、花屋久治郎刊)があるが、その内容からも江戸有数の知識人であったことがうかがえる。
 天明8(1788)年5月29日没。
 平成14年より、東京の川柳家有志によって「可有忌」が龍宝寺で行われます。



誹風柳多留8篇の木綿序

 辞世