明治40年代に入ってからの川柳の全国化には目覚ましいものがあります。
なかんずく読売系の作家分布には目をみはるものがあり、北は北海道札幌から南は四国愛媛の支局所在地に十余の支部が発足、読売川柳研究会の名のもとに作家を増殖していった点では、すでに新聞を離れて結社活動に重点が移っていた柳樽寺川柳会や久良伎社とは、比較にならない勢いがありました。これは、新聞の組織と、川柳の組織が、同じ線上で発展していったことが、大きな理由でしょう。
傘下川柳作家の数だけに限れば、読売川柳系はこの時点で全国制覇をなし遂げていたといってもいいわけですが、当然のこと、読売川柳研究会が輩出した人材もまた多士済々でそれ以後の川柳史に大きな足跡を残した名がかずかず見いだせます。
読売派の黄金期を現出した而笑子は言うまでもなく、42年5月創刊の《矢車》に拠って、新傾向川柳の先駆をなした森井荷十、中島紫痴郎、浅井五葉、大正中期の東京下町を代表する川柳誌《紅》を創立した島田天涯子、「写生の蔦雄」といわれた名作家・平瀬蔦雄、『江戸時代の川柳と吉原』ほか数々の著作を残している
佐藤紫絃、さらに現在、日本最大の川柳誌として大正2年以降82巻を誇る《番傘》の基を築いた岸本水府など、近代川柳史に多くの影響を与えた一流の人材がひしめいています。
三派鼎立時代の初期の作風としては、久良伎一派の江戸趣味、下町風、剣花坊一派の滑稽趣味、書生風にたいして、写実趣味、山の手風と称された読売派は、どちらかというと淡白な句風で特徴に乏しいともいわれますが、そうした作家群の中から、川柳にはじめて「詩」を指向する若い先駆者、前記の中島紫痴郎や岸本水府などを生み出したことは忘れてはならないことで、読売川柳研究会は、新川柳の第二次革命である「詩川柳」の温床として、現在の新しい川柳につながる主観尊重の嚆矢ともなったのです。
久良伎、剣花坊を中興の名で呼ぶとき、この両者に、読売新聞の朴山人もしくは而笑子を加えることの不当でないことは、以上の歴史的事跡に照らしても明らかなことだと思うのです。
近代川柳史も、このあたりで見直しが必要だと思います。
読売系の流れにつながる川柳作家は、現在もことに西日本に多くを数えますが、その先駆をなした読売川柳研究会の初期指導者二人について簡単に紹介しておきましょう。
田能村朴山人 窪田而笑子
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