十世川柳

<活動>明治39(1906)10月嗣号、明治42(1909)年引退,柳翁。
      大正2(1913)年再嗣号―大正12(1923)年引退。


<号> 
北窓雪雁/狂句堂川柳/柄井亭/有為堂

 
本名、平井省三。嘉永2(1849)年、江戸生れ。
 書家。浅草区役所衛生課長のちに代書業。
 明治37年立机。「時事新報」の狂句選者となる。
 同じころ読売新聞紙上で展開された岡田三面子(罵狂)との柳・狂論争は、転換期の川柳会に活気をもたらす。
 明治39年、社中の合意により10世を嗣号。
 明治40年、浅草区長の汚職事件に連座、在位3年で引退、柳翁となる。
 大正2年、十一世川柳が病気で引退後、再び十世川柳として宗家を預かる。大正12年、病気で引退。
 高番偏重主義を貫き、在位中は終始社中少壮派の批判を浴び、また、外から新川柳の攻撃を受ける。
 昭和3年8月11日没。法名:慈光院浄誉省道居士。東京都・浅草吉野町の瑞泉寺に葬る。

 
御題

祢の春に
 ひかれ
御用の
 松と鶴

有為堂柳翁

 

代表句