四世川柳

『柳多留』121篇・四代目川柳

<活動>文政7(1824)年嗣号―天保8(1837)年譲位・以後柳翁となる
    誹風柳多留34−70篇
<号> 
眠亭/賎丸(志津丸)/柳思庵/風梳(ふうしょ)

 
本名、人見周助。安永7(1778)年9月、江戸生れ。
 江戸南町奉行・筒井伊賀守二番組与力配下の物書同心。
 はじめ大塚に住み、文日堂礫川の折句連にあったが、文日堂の前句附復帰とともに二世川柳の門にいる。賎丸(志津丸=しずまる)と称し、文化3年の「誹風柳多留」35篇に勝句8章が初見。出句数も多かったのであろうが、入選句も多く、かなりの達吟家として活躍。
 文日堂の推薦で評者となり,文化8年の「誹風柳多留」58篇は賎丸の単独撰で十返舎一九が序を書いている。この時の出題中に「狂句」の語が初めて見える。
 文政6年頃から八丁堀中之橋の自宅で月例会を催す。
 文政7年、三世川柳の短期引退で空位になっていた川柳号の四世を社中推薦により継ぐ。
 文政9年8月28日、向島・木母寺境内に「東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑」を建立、末広会を催す。後に自らを俳風狂句元祖と称する。
 天保8年勇退、柳翁を名乗る。天保15(1844)年2月5日没。
 法名:祟徳院仁興普山居士。赤坂の法安寺に葬られる。

編著:『川柳百人一句』(4世川柳撰、歌川国直画、山崎屋清七版、天保5年)
    朱雀洞文庫には、2冊の『川柳百人一句』とその別名書籍『俳風狂句百人集』1冊が
    ある。『川柳百人一句』は、後からの増し刷りの書籍と思われる。

 代表句

  

       四世川柳直筆扇子〔朱雀洞文庫蔵〕              『川柳百人一句』〔朱雀洞文庫蔵〕