『柳多留』に見える唯一の三代目川柳
肖像はもとより、川柳に関する資料は僅かで、
確実なものは、墓碑名より他にない。
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<活動>文政2(1819)年嗣号―文政7(1824)年引退、柳翁を名乗る
誹風柳多留71・76篇のみ
<号> 無名庵 川柳
初代川柳の三男または五男。(六世川柳の記述では二世川柳の息という)。安永5(1776)年江戸生れ。本名は、柄井幸(孝)達、(幼名・八蔵)というのが通説。
ほとんど川柳活動がなく、柳多留の上でも影が薄い。
二世川柳の没後、血縁が絶えるのを惜しんだ川柳風連中のすすめで文政2年に三世を嗣号。
しかし、点業わずか3〜4年で引退してしまう。『誹風柳多留』の71篇と76篇に「川柳評」があるのみ。この引退は、社中でのスキャンダル説と武家勤めの忙しさのため点業を辞退したという説がある。
三世川柳が没すると、その夫人が龍宝寺の柄井家の墓を再建したようで、現存の墓碑正面には初代夫妻の戒名と三世夫妻の戒名が並んでいる。
文政10(1827)年6月2日没。法名:但受院浄刹快楽信士。新堀端・龍宝寺に葬られる。
代表句 |