墓域には、初代川柳・三代川柳合葬の墓碑と二代川柳の墓と伝えられる墓碑が並んで立っています。
周辺には、主に柳風会(五世川柳以降の狂句組織で十三世川柳まで)時代に整備された玉垣や記念標、香台、名刺入れなどが残されています。
五世以降の柳風会組織(当時川柳は、柳風狂句とよばれていました)の中心が川柳宗家であるという構図ができ上がると、初代川柳の遺徳を受け継ぎ、川柳の忌日の儀式を執り行うことが、権威者として重要な目的になってきました。
特に、柳風会内が分裂して二人の川柳ができる事件(明治29年の九世嗣号争い)などが起きると、正統九世川柳を自負する前島和橋は、次男に柄井家を再興させるとともに、墓域を整備し、その正当性を天下に示したのでした。
今日、初代川柳墓碑の向かって右側面には、和橋こと九世・緑亭川柳と家族の戒名が削り込まれているのが見られます。
初代川柳と々墓碑に眠る三代川柳は、初代の五男(または三男ともいう)柄井孝達で、三代川柳が亡くなった文政10年に、三代川柳の夫人が建立したと思われます。初代の長男であったという二代川柳こと柄井弥惣右衛門が居ながら、初代没後に墓碑が無く、三代川柳の夫人が、自分の主人と一緒に、初代の墓碑を作っているのは何故なのでしょうか。
また、二代川柳の墓といわれる墓碑の表面には、女性の戒名が二人並んでいたといいます。通説では、石工が彫り間違えたといいますが、墓碑のような大切なものを間違え、そのままに放置するとは思いにくいものです。 |