一句を完成するためには、見入れ(発想)−趣向(構想)−句作り(形象化)という手順を踏むことになります。
1.「見る」ということ
「見入れ」というのは、何を素材(テーマ)とするか、それをまず決定することですが、この時大切なのは作者の<目>で、表面的な浅いものの見方では、句もまた浅薄なものにしかなりません。
しっかりした対象把握には、なによりも「見る」ことが必要ですが、この場合の「見る」というのは、「心を置いて見る」ことです。「心そこにあらざれば見れども見えず」と兼好法師がいうように、ものの「実相」に観入して、隠れた真実の姿を心でとらえるのが「見る」です。「目撃」という言葉の真の意味は「目デ撃ツ」ということですが、「見る」とは、まさにそういうことにほかなりません。
例えば「政治には金がかかる」とよくいわれますが、本当にそうなのか、実際には、政治そのものではなく、「政治家にかる」のではないか。「政治家」という利権を維持するために必要な金を、「政治」に転嫁しているのではないか。汚職という現実につながるのが、政治そのものの構造に原因があるのか、利権追求という政治家個々の構造に原因があるのかを見極めないまま単に政治家の不正だけをテーマに取り上げても、浮ついた現象報告にしかならないでしょう。
真実をとらえる―あたり前のことですが、これがいちばん重要で、これを可能にするのが、目のはたらきだということです。
2.新鮮な題材を
次に、新鮮な題材を選ぶということ。この新鮮というのは、時系列的により新しい事件ということももちろんですが、同じことでも、これまで誰もそのような見方をしなかったという意味の新鮮さです。同じ種類の材料でも、新しい違った料理はできます。
しかし、どんな見事な包丁さばきをもってしても、材料そのものが古かったら、新鮮な料理はできません。
時事川柳では「永田町」という用語は、使い古されています。が、文字面は変わらなくても、その「永田町」について今まで触れられなかった部分を発見すれば、同じ用語がたちまち新しいニュアンスとしてよみがえります。
題材の新鮮さとは、だから材料それ自体の新しさというより、ものの見方の新しさといってよいでしょう。
「常のことを珍しくする」(ごく普通のことを新鮮にいう)といい、誰もが経験していながら、それを表現することのなかったような「言いのこし」が、光りを放つ材料となります。
3.角度が大切
次に「趣向」ですが、これは、対象へ向かう角度(スタンス)と、切り取る範囲を決定する(フレームワーク)ことが中心になります。
十七音という詩型では、すべてを盛り込むことはできませんから、ポイントを絞る。最も典型的、特徴的な一部を描くことで、全体を想像させる―例えば、墨絵などでは山の全容を描かず、稜線の一部を描くだけで山を想像させる手法がとられますし、また写真撮影で、グラウンドの全景を入れなくても、その一部をファインダーで切り取れば、運動会のスナップはできます。
ただ、その際、何をポイントとして選び、どの部分を切り取るか、つまり、句としてどんなかたちに「風景化」するかが、一句の内容を決定づけることになります。
そのためには、どの角度からファインダーに取り込むか、とい構え、スタンスが問題で、上下左右にほんのわずかだけ角度をずらしても、ファインダー内の風景は変わります。
必要なものと、必要でないものは、それが、広がりを持つものか、持たないものかで区別されます。というのは、それをとらえることで、それ以外のものをどれだけ想像させるかが、真のポイントになるということです。
単純な例を挙げれば、見物席の人物を一人写しても周囲の状況は分かりませんが、ピストルを構えたスターターを一人写せば、運動会か競技会、それに近い風景であることは想像できます。
言葉として表に現われるごく一端の風景によって、言葉にしないそれ以外の風景を想像させるのは、一にかかって切り取る角度にあり、これが短詩型の特性である「凝縮」を導きます。角度がが的確であれば、凝縮すればするほど、広がりは大きくなり、句の内容は豊かになります。
同じ対象を見る角度にも、もちろんさまざまあります。前から横から斜めから裏から、それに高低を加えれば、ほとんど無限といってよいでしょう。この中から一つを選ぶことは、そう容易ではありませんが、これは訓練によって身につけていくよりほかありません。
初心者がはじめから的確な角度で物をとらえることはむずかしいとしても、物は正面からだけ見るものという決め込みがあるとすれば、矯正することが大切です。「川柳の目」というのは、とりもなおさず「角度」のことなのです。
4.「説明」より「描写」を
さて、題材、趣向が決まれば、こんどはそれをどう言葉に表現するか。言語芸術の一種である川柳の仕上げは、この形象化にありますが、同じ内容(題材、趣向)でも、文体、レトリック(修辞)によって、まったく違った印象の句になりかねません。
文体としては、まず「説明体」にならないことが肝要です。また、「報告体」「理屈体」にならないことです。つまり、これらを含めての観念的な物言いはなるべく避けるという心構えが必要で、そのためにはできるだけ「描写体」を取り、説明するより風景化する、視覚的に描くように努力しなければなりません。
同じ「宝クジは当たらない」ということを言うのでも、
宝クジ夢の中ではよく当たり
は、夢に託してひとひねりはしているものの、結局は「夢の中でしか当たらないものだ」という理屈を説明的に述べただけの観念の産物になっています。しかし、これを「夢の中で当てた」という描写体にすれば、現実には当たらないというはかなさをより強調して伝えることができます。
起こされるまで当たってた宝クジ
前後賞付きで当たった夢で覚め
これが、「観念体」と「描写体」の違いです。
5.自分の言葉で
次には、「自分の言葉」で書くことです。既成の用語で安直に間に合わせたのでは、類型的な句にしかなりません。
句の言葉は既製服ではなく、時間がかかっても、内容にフィットする自分だけのサイズを選ばなくては、作者自身の作品とは呼べませんし、新鮮さも期待できないでしょう。
ことに、身近な流行語などは、一般の言葉より古びるのも速いということに留意してください。
また、既成概念へのとらわれも禁物です。自分の目で直接確かめもしないで、「空は青い」という類で、これが観念の弱さということです。
本当に青いか、そうでないかは、自分でじかにとらえるべきことで、「句はあたまで書かず、目で書く」といわれるゆえんも、ここにあります。
さらに、たとえ青かったとしても、すぐ「青い空」と限定してしまうより、その青さをも含めて、読者の連想を呼び起こすためには「空」とだけいえばよいのです。
前にも記した句のひろがりを求めるには、いたずらに修飾語を用いないことも大切で、「形容詞は名詞の敵」(C・リーガー)という言葉もあります。
川柳は、歴史的に口語発想の文芸として発展してきましたが、時には文語を用いる必要も生じてくるでしょう。前後の音数関係という純粋に形式上の理由もあるでしょうし、また文語には、口語ではのぞめない余意
・
余情を引き出すことや、力強さを感じさせる利点もあります。
決定的瞬間に死すカメラマン
普賢岳噴火の際の殉職カメラマンの死を、緊迫感をもって描いたこの句では、動詞「死す」の文語用法がきわめて効果的です。
形象化で特に留意しなければならないのは、猥雑・卑俗な用語を避けることと、次に記す「差別語」と称される一群の言語にも注意を払うことです。
6.「差別語」を避ける
差別語については、こまかく説明する紙幅はありませんが、人種・階級・職業などに関して差別的観念を表わすような語句や表現を避ける(歴史的記述などには例外もある)ということです。
例えば、国際関係用語では、「北鮮」という国名を使わず、朝鮮民主主義人民共和国(略称・北朝鮮)とする、障害者関連用語では、びっこ ・ めくら ・ つんぼ
・ きちがい ・ 四つ足 など、職業関連用語では、 人夫 ・ 漁夫 ・ 百姓 ・
土方 ・ 女中 ・産婆 ・ 乞食など、また、隠語 ・ スラングの類では、サツ ・ デカ ・ ドヤ ・
チャリンコ
など、また差別語ではなくても、いちじるしく品位の疑われるような語句や、読者に不快感を与えるような言葉遣い、さらに特定商品名(トレードネーム)などは、新聞記事でも「禁止語」とされていますし、作句用語としてももちろん適切ではありません。
以上、見入れ−趣向−句作りについての留意すべき点を、順を追って記しましたが、多少抽象的に過ぎたかもしれません。ここで足りない分は、次項の「チェックポイント」と照らし合わせて理解していただければと思います。
正岡子規が初心者へのいましめとして「巧みを求むるなかれ」「拙を覆うなかれ」といっているのは、まさに至言で、はじめからうまく作ろうとか、へたなところを見られたくないと考えるのは、誰にも共通した自然の思いではあるでしょうが、こうした文芸の上達には、それがいちばん禁物だということです。
尻込みをしないで、自分の句には進んで意見、批評を求め、かたわら、自分以外の作家の作品によく目を通すこと、これが上達へのいちばんの近道と心得てください。
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